2009年から撮っている、高知県のダンサーOGURAとAZUKI. OGURAがこだわって見せるYOSAKOIと、彼の空間。2012年は、OGURA YOSAKOI展を開催させてもらった。ますますわくわくする展開を見せてくれるOGURAの世界。見てほしい。
9/27/2012
9/24/2012
B・T の写真
B・T の写真を選びました。
素敵な空間を、思い出すために
DVDになりますので、Dance Creamまでお問い合わせくださいね。
DVDの中の写真は、カメラ屋さんに持っていけばプリントしてもらえます。
紙に焼いて持ってれば、見たい時にすぐ見られます。^^
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About_2012
9/21/2012
私の中のOGURAは、本当に存在した
今日、小倉先生が我が家を訪ねてくれた。
たまにボツリ、ボツリとお話を伺う程度のOGURAに対する認識で、私が感じるままのOGURAを撮り続けたけれども。
OGURAはAZUKIあっての、小倉が表現するOGURA YOSAKOIだったことを知った。
今まで、実際私の手探りな部分もあったけれど、小倉先生から聞いた、彼のアートの、表現する場としてのAZUKIあってのOGURA YOSAKOI.。
これは私が感じてきたことが事実に基づいていたと小倉先生から裏付けをもらった感じだった。
今まで、多くは語らない小倉先生だったけど、8月の写真展以来、私が表現したかったOGURA YOSAKOIと小倉のOGURA YOSAKOIは私が感じたままの小倉先生の世界だったんだと実感できた。
そして、小倉はマイノリティーかもしれないけど、OGURA AZUKIと呼べる世界を、彼自身がAZUKIだからできるOGURA AZUKI YOSAKOI を構築していたんだとわかった。
AZUKIあってのOGURA YOSAKOI。それが小倉先生が創るYOSAKOIアートだったんだと。
これは、彼が見つけた、彼のYOSAKOIのインスパイアとしてのAZUKIだということだろう。
小倉先生とそんなお話ができて、私はOGURA AZUKIを撮らせてもらったことに改めて感謝したいと思った。
私にとって アーチストは磁石みたいなものかも、私を惹きつける匂いを持っている。
いろんなアーチストの表現方法がある。確かに。。^^
もっと早く小倉先生とこんなお話ができていたらなと、改めて思った。
男は自分を語らない。そこで感じるか感じないかで、分かれ目になってしまうのかもしれない。
つらいところだね。。。
撮影する者にとって、情報はかなり重要な部分を占める。何故かというと、私が感じる被写体が、実は思い違いであるかもしれなくて、切り取った部分が実はうそにもなりうるのだわ。
写真と言うのはかなりうそがつけるテクニックで、自分が感じた世界を、眼の前のオブジェクトを自分の思うままに切り取ることで全く違った世界を作ることができる。それは誰が撮ってもしかりだ。
今日小倉先生とお話して良かったと思ったのは、私が間違った感じ方をしていなかったと確認できたことだ。私か彼らを事実に基づいて写せていたということだ。
ドキュメンタリーというわけではないにしても、わたしの写真は感じたことを私の表現で如何に現実として伝えることができるかと言う所にあるから、かなり重要だ。
AZUKIの皆さんからの募金でできた、OGURA YOSAKOI 写真展。
無駄にはならなかったと思った。先ずはAZUKIの皆さんに見ていただけた。
そしてもっと近くなったと感じた。
ありがとうございます!
たまにボツリ、ボツリとお話を伺う程度のOGURAに対する認識で、私が感じるままのOGURAを撮り続けたけれども。
OGURAはAZUKIあっての、小倉が表現するOGURA YOSAKOIだったことを知った。
今まで、実際私の手探りな部分もあったけれど、小倉先生から聞いた、彼のアートの、表現する場としてのAZUKIあってのOGURA YOSAKOI.。
これは私が感じてきたことが事実に基づいていたと小倉先生から裏付けをもらった感じだった。
今まで、多くは語らない小倉先生だったけど、8月の写真展以来、私が表現したかったOGURA YOSAKOIと小倉のOGURA YOSAKOIは私が感じたままの小倉先生の世界だったんだと実感できた。
そして、小倉はマイノリティーかもしれないけど、OGURA AZUKIと呼べる世界を、彼自身がAZUKIだからできるOGURA AZUKI YOSAKOI を構築していたんだとわかった。
AZUKIあってのOGURA YOSAKOI。それが小倉先生が創るYOSAKOIアートだったんだと。
これは、彼が見つけた、彼のYOSAKOIのインスパイアとしてのAZUKIだということだろう。
小倉先生とそんなお話ができて、私はOGURA AZUKIを撮らせてもらったことに改めて感謝したいと思った。
私にとって アーチストは磁石みたいなものかも、私を惹きつける匂いを持っている。
いろんなアーチストの表現方法がある。確かに。。^^
もっと早く小倉先生とこんなお話ができていたらなと、改めて思った。
男は自分を語らない。そこで感じるか感じないかで、分かれ目になってしまうのかもしれない。
つらいところだね。。。
撮影する者にとって、情報はかなり重要な部分を占める。何故かというと、私が感じる被写体が、実は思い違いであるかもしれなくて、切り取った部分が実はうそにもなりうるのだわ。
写真と言うのはかなりうそがつけるテクニックで、自分が感じた世界を、眼の前のオブジェクトを自分の思うままに切り取ることで全く違った世界を作ることができる。それは誰が撮ってもしかりだ。
今日小倉先生とお話して良かったと思ったのは、私が間違った感じ方をしていなかったと確認できたことだ。私か彼らを事実に基づいて写せていたということだ。
ドキュメンタリーというわけではないにしても、わたしの写真は感じたことを私の表現で如何に現実として伝えることができるかと言う所にあるから、かなり重要だ。
AZUKIの皆さんからの募金でできた、OGURA YOSAKOI 写真展。
無駄にはならなかったと思った。先ずはAZUKIの皆さんに見ていただけた。
そしてもっと近くなったと感じた。
ありがとうございます!
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2011azuki_yosakoi,
2012azuki
9/09/2012
9/08/2012
2012年、雨
今年はこんなにも土砂降りで、まるで人の心を洗っているかのようだった。
わたしは、いろいろ詰め込みながら、時間ばかり過ぎて行った今年の疲れがどっと出て、
まる2日間夜も昼も寝続けた。
おかげでやっと正気に戻って、生き物に近づきつつあるかのように動き出した。
写真を選んでいるうちに、今年のみんなの顔がさわやかに見えるのに気がついた。
2009年から彼らを見ているけど、その間にいろんなことがあって、いろんな彼らの顔を見せてもらってきた。
でも、その中にわたしの存在はないと思っていたけど、いつの間にか写真を通して彼らの中に存在していたのを知った。
ほとんど話をしたことがなくて、このブログの意味も未だにつかめないまま、どうして踊り以外の彼らまで撮っていたのか。
それが私の存在を見つける手段だっただけだったのかもしれないと思いつつ、達成感もなく。
それが、私がひとつのジャンルとしてOGURAを見てもらってきながら、小倉先生の表現する世界を理解しようとしていた自分を見つけた。
今年、高知でOGURA DANCE の個展をしていただいた時、小倉先生がその写真の中を踊りだした時、わたしは彼をビデオに収めていた。(クリックしてね)
これは、OGURAとわたしのコラボとして仕上がったと思った。
音は編集しなおさなくちゃいけないのにそのままで、ボリュームを小さくして映像を見てもらわなくちゃいけないけど。
よさこい踊りが作品になるとは思っていなかったけど、先入観を抜きにして真正面から見てもらえれば、わたしが表現したかったOGURAの世界を理解してもらえるんじゃあないかと思った。
よさこい写真を記録ではなく、アートにする。それは今回成功したのかもしれないと思えた。
わたしは、アトラクト・ラルゴでの写真展をたくさんの人に見てもらいたいとは感じていなかった。
ただ、AZUKIのみんなに見てもらえることが一番重要だった。
それでも、意外にいろんな方が見に来て下さっていた。
高知の写真関係の方々が、それも2回も足を運んでくださった方が何人もいらっしゃったことが驚きだった。
写真の展示方法としては邪道かと思える見せ方だったが、わたしにはそれが彼らを見せる方法だったから、仕方がないね。
写真を見せるのではなく、写真を使った空間を、OGURAが見せるひとつの世界と感じてもらえればと思った。
その中で踊っている彼らは、今も動いている途中で、その中に身を置いた方々がいかに感じ取ってくれるか。それは、今度は見る側に任せるだけ。
OGURAが見せる踊りもたぶんそんな感じかなと思う。
わたしは、いろいろ詰め込みながら、時間ばかり過ぎて行った今年の疲れがどっと出て、
まる2日間夜も昼も寝続けた。
おかげでやっと正気に戻って、生き物に近づきつつあるかのように動き出した。
写真を選んでいるうちに、今年のみんなの顔がさわやかに見えるのに気がついた。
2009年から彼らを見ているけど、その間にいろんなことがあって、いろんな彼らの顔を見せてもらってきた。
でも、その中にわたしの存在はないと思っていたけど、いつの間にか写真を通して彼らの中に存在していたのを知った。
ほとんど話をしたことがなくて、このブログの意味も未だにつかめないまま、どうして踊り以外の彼らまで撮っていたのか。
それが私の存在を見つける手段だっただけだったのかもしれないと思いつつ、達成感もなく。
それが、私がひとつのジャンルとしてOGURAを見てもらってきながら、小倉先生の表現する世界を理解しようとしていた自分を見つけた。
今年、高知でOGURA DANCE の個展をしていただいた時、小倉先生がその写真の中を踊りだした時、わたしは彼をビデオに収めていた。(クリックしてね)
これは、OGURAとわたしのコラボとして仕上がったと思った。
音は編集しなおさなくちゃいけないのにそのままで、ボリュームを小さくして映像を見てもらわなくちゃいけないけど。
よさこい踊りが作品になるとは思っていなかったけど、先入観を抜きにして真正面から見てもらえれば、わたしが表現したかったOGURAの世界を理解してもらえるんじゃあないかと思った。
よさこい写真を記録ではなく、アートにする。それは今回成功したのかもしれないと思えた。
わたしは、アトラクト・ラルゴでの写真展をたくさんの人に見てもらいたいとは感じていなかった。
ただ、AZUKIのみんなに見てもらえることが一番重要だった。
それでも、意外にいろんな方が見に来て下さっていた。
高知の写真関係の方々が、それも2回も足を運んでくださった方が何人もいらっしゃったことが驚きだった。
写真の展示方法としては邪道かと思える見せ方だったが、わたしにはそれが彼らを見せる方法だったから、仕方がないね。
写真を見せるのではなく、写真を使った空間を、OGURAが見せるひとつの世界と感じてもらえればと思った。
その中で踊っている彼らは、今も動いている途中で、その中に身を置いた方々がいかに感じ取ってくれるか。それは、今度は見る側に任せるだけ。
OGURAが見せる踊りもたぶんそんな感じかなと思う。
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2012yosakoi_azuki
9/07/2012
9/03/2012
9/01/2012
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