9/21/2012

私の中のOGURAは、本当に存在した

今日、小倉先生が我が家を訪ねてくれた。
たまにボツリ、ボツリとお話を伺う程度のOGURAに対する認識で、私が感じるままのOGURAを撮り続けたけれども。
OGURAはAZUKIあっての、小倉が表現するOGURA YOSAKOIだったことを知った。


今まで、実際私の手探りな部分もあったけれど、小倉先生から聞いた、彼のアートの、表現する場としてのAZUKIあってのOGURA YOSAKOI.。
これは私が感じてきたことが事実に基づいていたと小倉先生から裏付けをもらった感じだった。

今まで、多くは語らない小倉先生だったけど、8月の写真展以来、私が表現したかったOGURA YOSAKOIと小倉のOGURA YOSAKOIは私が感じたままの小倉先生の世界だったんだと実感できた。

そして、小倉はマイノリティーかもしれないけど、OGURA AZUKIと呼べる世界を、彼自身がAZUKIだからできるOGURA AZUKI YOSAKOI を構築していたんだとわかった。
AZUKIあってのOGURA YOSAKOI。それが小倉先生が創るYOSAKOIアートだったんだと。
これは、彼が見つけた、彼のYOSAKOIのインスパイアとしてのAZUKIだということだろう。

小倉先生とそんなお話ができて、私はOGURA AZUKIを撮らせてもらったことに改めて感謝したいと思った。

私にとって アーチストは磁石みたいなものかも、私を惹きつける匂いを持っている。

 いろんなアーチストの表現方法がある。確かに。。^^

もっと早く小倉先生とこんなお話ができていたらなと、改めて思った。
男は自分を語らない。そこで感じるか感じないかで、分かれ目になってしまうのかもしれない。
つらいところだね。。。

撮影する者にとって、情報はかなり重要な部分を占める。何故かというと、私が感じる被写体が、実は思い違いであるかもしれなくて、切り取った部分が実はうそにもなりうるのだわ。
写真と言うのはかなりうそがつけるテクニックで、自分が感じた世界を、眼の前のオブジェクトを自分の思うままに切り取ることで全く違った世界を作ることができる。それは誰が撮ってもしかりだ。

今日小倉先生とお話して良かったと思ったのは、私が間違った感じ方をしていなかったと確認できたことだ。私か彼らを事実に基づいて写せていたということだ。
ドキュメンタリーというわけではないにしても、わたしの写真は感じたことを私の表現で如何に現実として伝えることができるかと言う所にあるから、かなり重要だ。

AZUKIの皆さんからの募金でできた、OGURA YOSAKOI 写真展。
無駄にはならなかったと思った。先ずはAZUKIの皆さんに見ていただけた。
そしてもっと近くなったと感じた。

ありがとうございます!


2 comments:

  1. こちらこそありがとうございます。
    Makikoさんは、私の想いをいつも写真と文章で代弁してくれる。
    なかなか、自分のことは話せないですよね。
    良いことも悪いことも含めて、AZUKIは私自身であることは、間違いないです。

    先日はご馳走様でした。
    そして、オーディオ談義楽しかったです。
    お借りしたDAC、音が凄く変わりました。
    深みや、今まで聞こえなかった音が聞こえてきました。
    もう少し、お借りしてても良いですか?

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    Replies
    1. Takaさん、

      コメント嬉しいです。ありがとうございます。

      もちろんOKです。
      じっくり聴いてみてください。
      また、いつでもまた寄ってくださると嬉しいです。

      AZUKIの写真本お話がまとまりました。
      早速明日から取り掛かります。^^

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